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もじ イメージ Graphic展
春休みくらいまで開催されている『もじ イメージ Graphic展』に行ってきた。
もとから生粋の文字好きである僕にとってこの展示は絶対行くリストのだいぶ高いTierに入っていて、しかしながらなまじ会期が長いから行けていなかったのだ。中間試験なりで逼迫していたのもある。それでもその存在を忘れることはなくようやく先日行ってきた。
出展されているプロダクトの製作者からして錚々たるもので、展示自体もそこそこ人気を帯びていたから、人が多すぎないといいなと思いつつ向かった。幸いにもド平日の真昼間だからかあんまり人はいなかった。それにしても購入したチケットが“すべての日程の任意の時間で来ていい”タイプで、だいぶ整理からしたら勇気がいるだろうと思ったが、そういうもんなのかなあ。
具体的に何がどう展示されていたかまで仔細に踏み込むとネタバレになるだろうから細かな話は省いてしまうが、どちらかというと“グラフィックの構成要素としての文字”の側面が強かったなあと感じるなどした。サインシステムやインフォメーションなど、情報伝達の手段として存在する文字に対して、その効力が最大化されているような設計ないし意匠……にスポットライトを当てるというよりかは、普段意思疎通に使われている文字はポスターなどが肝心要の情報を伝達するときにも欠かせないもので、ただしそこにもグラフィックとして表現を内包しうる可能性はあるよねというプロダクトが多かった印象がある。
別に限られた広さの会場内で文字のなしうる表現形態とその可能性をすべて網羅的に表現するなんてのはだいぶ無理難題だから、そういう感じのかあと納得しながら見ていった。実際入ってすぐにそういったグラフィックとしての文字の事例がだいぶダイナミックに展開されていて非常によかった。
文字ではなくグラフィックの展示なんだなと思わせた例の最たるものが“言葉とイラストレーション”のテーマで、明確に文字(少なくとも、言語体系を記すグリフセットとしての文字)と想定されるものから切り離されたものが広がっており、グリフをめでる意味の文字好きからしたらだいぶ新鮮に映った。
日本が土壌としている漢字文化圏の中の存在性とグローバライゼーションに巻き込まれるにつれて自国のものとしたラテン文字が現状の日本語の書字体系には組み込まれていて、その特殊性・複雑性を軸にしたものがみられて和文組版ってやっぱり複雑系でありながら還元的アプローチをとることができるってのは楽しいよなあとなるなどしたが、ギャラリー内の書籍がやたらと和欧中で相互にされた書籍の翻訳なりで満ちていたのはいまだにあまり納得しきっていない。そもそも和文組版と欧文組版ならある程度の解像度を得ているのに対して中文はさしたる解像度を得ていないから感動をふいにしてしまっているじゃないかみたいな自己批判は為しうるものの(逆に、中文も組版してみたら面白いかもなと思うに至った)、それはそうと書字体系的に内包されているなら言語の都合を押し破ってもいいとはあまり思わなかった、というのが怪訝さの正体であろうと思う。
言ってしまえば、和文が漢字と欧文を内包したからといって、他国の組版や書影なりを同じ物差しで見てしまったというのが後悔であり、僕個人が等しく詳しくなればいいというツッコミも正しくはあるが、でもこの展示に来る人間はほとんどが日本語を母語とするものばかりだろうという感情である。
この奇怪さの別種の側面が“アングロスフィアのひとびとがカタカナを純粋にグラフィックとして見ている”といったものなんだと思う。少し前にconverseがカタカナでコンバースと記されたスニーカーのバリアントを作ってだいぶ寒がられたくだりが記憶に新しいし、趣味でキーキャップをウィンドウショッピングしてるとカタカナが印字されたキーキャップを見るが、こういったものはカタカナを情報伝達の媒体としてみていないのが日本語話者にとって違和感を持って映るんだろうと思う。それの延長線上にカタカナをグラフィックとして使った展示もあった。
もちろんグラフィックはそれが表示される媒体や社会を拘束条件として要件が決まるみたいな側面もあるから、カタカナをグラフィックとしてみる人しかいないならそれでいいのである。魔法陣に軽率にルーンを書いちゃうようなもんである。それが切り離されてホワイトキューブの中におさめられた時に、その社会的な条件が変わることによるコンテキストの欠落は間違いないと感じるなどした。
とはいえ全体として文句をつらつら垂れながら行ったわけではなく、どちらかというと圧倒的な情報に溺れながらなんとか得た違和感をいま忘れないように言語化しているだけである。文字をグラフィックとして扱うというのは様々なアプローチがあるし、情報としての機能を失うギリギリまでグリフを自由に解釈して意味合いを新しく持たせるテーマも持ち得れば、文字そのもののグリフはあえて触らず、文字そのものには情報を素直に載せて、印刷や構図などでコンテキストを上乗せする方法もあった。水戸部功の装丁はテッド・チャン『息吹』で圧倒されたのをまだ覚えているが、展示中に遭遇してもう一回圧倒されるなどした。
ちなみに、会を見終わって地上階に上って目に入ったヒルズに多大なる資本の香りを得た。